中国人の留学生たちや最近は店の評判を聞きつけて来てくれるようになった日本人の客で賑わう店を見ながら大久タツは思いました。
「せっかくここまで来たんだから、このままじゃいけない。でもどうしたらいいんだろう。」
厨房から料理人王のよく通る声が響きました。
「ハオラー(好了)!」
北9条西4丁目、北海道大学の正門前の一角にその店が「支那料理 竹家食堂」の看板を上げたのは大正11年の4月のことでした。
そんな頃タツはここに中国からの留学生が多いことを知りました。
そして、店の常連になった留学生たちと話しているうちに彼らの一番大きな悩みも知ったのです。
それは、食べ物。
「私たちは毎日日本の食事ばかりでは力が出ません。故郷の料理が食べたい・・・。」
「支那料理の店、なんてどうかしらね?留学生の人たちもたくさんいるし、寒い北海道には脂っこい支那料理合うんじゃないかねぇ。」
「支那料理か・・・。それはいい考えかもしらんな。でもそうなると料理人を雇わなきゃならん。作れる料理人はいるかな?」
「そうだねぇ。」
王文彩が日本人の船員に連れられて竹家食堂に現れたのはそれからしばらくした頃でした。王は大柄で目が大きく風格のある中国人でした。
「この人はシベリアで支那料理の店をやっていたんですが、尼港事件に遭って樺太経由で北海道まで逃げてきたんだそうです。日本語はまだしゃべれないんですが料理の腕は確かです。こちらで使ってやってもらえんでしょうか。」
昌治とタツは顔を見合わせました。まるで神様が幸運を運んできてくれたように思えたのでした。
二人は早速(中国人留学生に通訳を頼み)王文彩の意見を聞きながら店を中華料理店に改装し北大の春休みが終わった頃「支那料理 竹家食堂」は開店しました。北海道では初めての本格的中華料理店の誕生です。
王文彩の料理の腕は本物でした。それは食通と呼ばれる人たちや本場の味を知っている北大の教授をうならせるほどの物でした。
毎日数十名の中国人留学生たちの賄いも引き受け、北大からの出前や宴会の依頼などもあり竹家食堂は順調に滑り出しました。評判が上がってくるとそれを聞きつけた日本人のお客も増え店はますます賑わって来ています。
しかしお客が増えるにつれタツには悩みができました。
王文彩は麺作りの技術も持っていました。
麺の生地を引き延ばして折りたたみさらに引き延ばして、
2本が4本、4本が8本、と言った具合に繰り返し、一本が2ミリくらいの太さになるまで伸ばしていくと言う製法でした。大きな王の腕の間で麺がまるで生き物のように震えながら次第に細くなり数が増えていく様子は魔法のようだったと言います。
この麺を使った料理で人気になったのが「肉絲麺(ロースーメン)」でした。
「これはどんな料理?」
「肉を糸のように刻んで油で揚げたのを入れた麺なんですが・・・」
「あっ、支那の蕎麦か。それ一つ。」
人気は出ても「肉絲麺(ロースーメン)」とと言う名前が日本人には発音しづらかったのかその名前で注文してくれる人はいませんでした。
「支那の蕎麦」「支那蕎麦」・・・
言葉の持つニュアンスは時代の空気によって変化します。元々中国や中国の人を表す言葉だった「支那」「支那人」も日清・日露戦争を経て日本が大陸へ進出していく頃には中国人を見下すようなニュアンスに変わりつつありました。
しかし大学関係者がほとんどの客だった頃はそれもあまり気にはなりませんでした。それが普通の日本人の客が増えてくると・・・
「チャンコロの蕎麦くれ。」
「こっちもチャンそばひとつ。」
チャンコロは完全に中国人を侮蔑した言葉です。
中には店に中国人留学生がいることを知りながら、
「この辺にはやたらチャンコロが多いな。」などと聞こえよがしに言う客もいます。
そんな時、タツは中国人留学生と目を合わせるのが辛いような気がしました。
「あんなに真面目で一生懸命な人たちに嫌な思いをさせるのは辛いねぇ。それにこの店がうまく行き始めたのもあの人たちが力を貸してくれたからなんだしね。チャンそば、なんて言われなくて済むようにしなければ。」
昌治も思いは同じでした。二人は色々と考えながらメニューや店内の表記を変えてみたりもしていました。
この少し前には「肉絲麺(ロースーメン)」を「柳麺(リュウメン)」としてみました。
「これの方が読みやすいし発音もしやすいだろう。」
しかし、効果は全くありませんでした。
どうしたらいいもんか、ねぇ。
そんな思いにふけっていたタツは王の大きな声で我に返りました。
「ハオラー(好了)!」
料理ができたよ、と言う意味です。料理中の厨房に他の人間が入るのを嫌う王は注文を受けた料理が出来上がるたびに大きな声でハオラー!と叫びました。店が賑わうごとにそんな王の声が店に響く回数は増えています。
「王さんったら、またあんな大きな声で。」
タツは微笑みながら思いました。
「いつもいつも、ラー、ラーって。」
その時、タツの頭に閃く物がありました。
「ねえ、ラーメンって言うのはどうかな。」
「ラー、メン・・・か?」
「うん。私店にずっといると、王さんのラー、ラーって声が耳に残っちゃって・・・」
タツは笑いながら言いました。
「ラーメン、なら言いやすいし、でも日本語にはないでしょう?」
「そうだな、ラーメンか。語呂はいいし支那料理に合っているかな。でもどう書く?柳麺の時みたいに読んで貰えなければ意味はないぞ。」
「だから、カタカナで大きく、ラーメンって書いたら?」
タツの閃きは、あたり、でした。
最初のうちこそ、「ラーメンって何だい?」と質問する人が多かったのですが、そのうち「チャンそば」はもちろん、「支那の蕎麦」「支那蕎麦」と注文する人もいなくなりました。そしてもっと驚いたことは「ラーメン」とメニューに書いてから、麺類の売り上げがうなぎ登りに上がったことでした。ラーメンと言う言葉が札幌にしっかり根付いたのです。
その頃札幌は喫茶店の街とも呼ばれ市内には10数店の喫茶店があったそうです。竹家のメニューに「ラーメン」が登場して数年のうちにそれらの喫茶店や市内の食堂のメニューに「ラーメン」が入るようになりました。その頃、喫茶店や食堂のラーメンの値段は一杯15銭だったそうです。竹家食堂のラーメンは一杯20銭でした。しかしラーメンの元祖としての竹家食堂の評判は高く値段の差も関係なくお客が減ることはありませんでした。
王文彩は大正13年に惜しまれながら竹家食堂を去りました。
その後は李彩、李宏業が後を継ぎ竹家食堂を発展させていきました。
大正14年には支店「芳蘭」開店
昭和3年、「旭川芳蘭」開店
旭川でも、ラーメンは人気メニューとなりました。
すでに札幌では知らない人がいないほどになっていた「ラーメン」は旭川でも少しづつ認知されるようになっていったのです。
昭和8年、本店、竹家食堂新装開店。
竹家食堂は繁栄を続けていました。
その未来は永遠に明るいようにさえ見えました。
しかし昭和15年12月、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入。
戦局の悪化につれ物資も不足してきます。
麺を打つ小麦さえ質の良い物は手に入らなくなりました。
そしてついに昭和18年、物資統制令により、竹家食堂廃業。
北海道のラーメンの歴史のプレリュードはここに終わりました。
(事実関係、時代背景などは大久 昌巳 、 杉野 邦彦 (著) 「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」および札幌市-北区役所ホームページ|北区‐第10章:その他[札幌の味、そのふる里をたずねて]を参考にさせていただきました。会話などは管理人の想像による創作、です。)
ちょっと前に話題になったのは、水戸の黄門様が中国の麺料理を食した、と言うのが文献にあるとか。1665年のことだそうです。これはどのような物だったかは不明ですが、中国人儒学者が作った「汁そば」、と言うことですからスープに中華麺の入った物、なんでしょう。今のラーメンとはもちろん違うとは思いますがラーメンの元祖、と言えなくもない(笑)ちょっと微妙、ですね。黄門様のお気に召したかどうかは不明ですが、この「汁そば」が普及することはなかったようで、その後の記録には出てきていません。ま、物好きなお殿様が珍しい物に興味を示した、と言うような事のようです。
(もっとも鎖国以前は日本と中国の間を行き来する民間人もけっこういたでしょうからスープに中華麺の入った物、を食べた日本人は黄門様に限らなかったような気もします。)
それから200年ちょっとたった明治初期、1884年の函館新聞に函館の「養和軒」というレストラン(華僑が経営する洋食の食堂、だったそうです。)が、「南京そば」発売という広告を出しているのだとか。
この「南京そば」がどんな物かもはっきりとは分からないのですが、「養和軒」の中国人料理人(店主?)が作りメニューに載せていたようです。
函館は幕末期最も早く開港された港町の一つですから外国の文化が入ってくるのも早く中国人も多かったのかもしれませんね。
この「南京そば」と言う名前はその後明治の中頃から横浜中華街に屋台の南京そば屋が次々と現れたことでよく聞かれるようになります。
(函館の「南京そば」と横浜の屋台の「南京そば」が同じような物なのかどうかも不明(すいません。))
そして、1910年東京浅草の「来来軒」と言う店が「支那そば」をメニューに載せます。今のラーメンに近い物を店で提供したのははっきり記録に残る中ではこれが最初のようです。
さて、それから、10年ほど過ぎた1922年(大正11年)、札幌北海道大学前に一軒の店が開店しました。
]]>
静香さんの趣味はアウトハウス(??)
]]>
「まめっぷでは、野田市の様々なタウン情報をお届けするローカルオンラインタウン誌です。
野田市の観光情報を始め地元で有名な物産やグルメなどのお店情報や
知って得する便利な情報など、また各イベント情報などお伝えしていきます。
野田市では、古くから醤油醸造が盛んで醤油の某有名企業の本社があり
今では国内の約30%を生産するほどの醤油生産地で、また枝豆が特産物としても有名です。
関宿町を編入して更に大きくなった野田市!そんな野田市の役立つ情報や野田市に遊びに来られる際のガイドブック的なサイト、みなさんに愛されるサイトを目指して頑張って参りますので、これからも 野田タウン情報 バラエティーサイトのまめっぷ を宜しくお願いいたします。」
全国地域活性化プロジェクト、千葉県野田市のオンラインタウン誌サイトです。
]]>
「愛知県半田市は、名古屋市の南、知多半島の中ほどに位置し、
醸造業が盛んだったことから「蔵のまち」として、
あるいは、童話作家の新美南吉の生家があることから「ごんぎつねのまち」として、
または、「山車祭りのまち」としても有名です。
半田なう!は、半田市にお住まいの方にとってはもちろんのこと、
半田市に遊びに来られる方々にとっても、役立つ楽しい情報を発信していきます。」
半田市って新美南吉の生まれた町、なんですね。
新美南吉と言えば「ごんぎつね」が有名ですが、
私は子供の頃読んだこぎつねと手袋の話が大好きでした。
(今調べてみたら「手袋を買いに」と言うタイトルなんですね。記憶ってやつは当てにならない(笑))
「半田なう!」は全国地域活性化プロジェクトのリーダーが運営するポータルサイト。
「全国地域活性化プロジェクト」いよいよ動き始めます!!
]]>
この二つに共通するのは、どちらも明治時代に外国から入ってきた物が日本流にアレンジされ日本の料理として定着した物だと言うこと。
カレーはもともとインドが発祥でそれがイギリス人の手を経て日本に来た物ですし、ラーメンは中国人の料理人が作っていた麺料理がしだいに日本人の好みに合うように変化して今の形になった物です。
日本人の多くが好きな料理に挙げるラーメンですが、
このラーメンというネーミングが全国的に定着したのはいつ頃からか知っていますか?
1958年8月、初めてのインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売になり大ヒット。その後各社もインスタントラーメンの開発・販売を始め1960年代には国民食とも呼べるような存在になっていきます。このインスタントラーメンの普及が「ラーメン」と言う呼び名を全国的な物にしたと言われています。
それまでは「ラーメン」はあまり一般的な呼び名ではありませんでした。ほとんどの地方で戦前は「支那そば」、戦後になってからは「支那」と言う呼称は問題、と言うことで「中華そば」と呼ばれていました。(中にはただ「そば」と言うとラーメンを指し、昔からの「蕎麦」のことは「日本そば」と言うところもあったようです。)
しかし、北海道は違いました。北海道では戦前から「ラーメン」のネーミングが一般的で「支那そば」「中華そば」の方が少なく、戦後はほとんど使われていなかったようです。
私事なのですが・・・
私は北海道で生まれ育ち、高校を卒業して青森県弘前市の大学に進学。初めて本州で一人暮らしを体験することになりました。その時新鮮な驚きだったのが食堂などのメニューに「ラーメン」の文字がない、ということでした。(札幌ラーメンのチェーン店を除いて、ですが(笑))「中華そば」「五目中華」etc
「御注文は?」
「(おそるおそる・・・)ラーメン。」
「はい。中華一つ!!」
(あっ、通じた(笑)でも、「ラーメン」は「中華」なんだぁ。・・・(笑))
もうだいぶ昔の話ですが(笑)・・・昭和50年代のことです。
でも何故、北海道では「ラーメン」が早く普及していたのでしょう?
北海道のラーメンの発祥は大正時代に遡ります。
「大分市の海部地方に住んでいる『大吉パパ』のすもつくれん話です。氷河期に近い寒いオヤジギャグが満載のマジでくだらない話です(汗)。読む人が「マジくだらん!」って言ってもらえるようなブログにしたいです。『大吉パパ』は【全国地域活性化プロジェクト 大分支部】のメンバーです。」
海部ってアマベって読むんですね。
昔の総理大臣の名前と同じ字なのでカイフかと思っていました。
すもつくれんは「くだらない」とか「馬鹿馬鹿しい」と言う意味だそうです。
「氷河期に近い寒いオヤジギャグが満載」と『大吉パパ』さんは言っていますが、いやいやどうして独特の語り口につい引き込まれ新鮮な切り口にうならされるおすすめブログです。
さすが、凄腕アフィリエイター『大吉パパ』。
]]>
おいない、って「おいで」とか「いらっしゃい」って意味なのかな?
全国地域活性化プロジェクト三重県代表、ラッキーカムカム薔薇人さんのブログ。
「毎日、自分が住んでいる周辺地域で何か面白いことや、興味深いことがないか鵜の目鷹の目で探しています。 何か発見がありましたらブログにアップしていきますね。」
鋭い視点と優しい眼差し、ユニークな文体、とっても味わいのあるブログです。
ちょっとおいない!三重の町 津市、鈴鹿市、四日市市のプチプチタウン情報徒然草。
]]>
オオカミ赤ちゃん、スクスク成長...円山動物園
職員に抱きかかえられたシンリンオオカミの赤ちゃん=円山動物園提供 札幌市円山動物園は8日、5月14日に生まれたシンリンオオカミの赤ちゃんの写真を公開した。
赤ちゃんはオス1匹で、順調に成長しているという。
同園は、鳴き声などから出産を確認したが、母親の「キナコ」が神経質になっていたため、巣穴に近づかないようにしていた。今月5日に獣医師らが巣穴に入り、赤ちゃんの性別などを確かめた
オオカミ赤ちゃん、スクスク成長...円山動物園 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
札幌市円山動物園は25日、エゾシカ・オオカミ舎で飼育しているシンリンオオカミに赤ちゃんが誕生したことを発表した。
両親は「ジェイ」(オス、5歳)と「キナコ」(メス、10歳)。キナコは先月からお腹の膨らみが目立ち、外放飼場の観覧スロープの下に巣穴を掘るなど、妊娠の兆候があった。今月14日に巣穴付近に設置したマイクに、赤ちゃんらしき声が入っていたため、出産したことがわかった
円山動物園でシンリンオオカミの赤ちゃん誕生 - ニュース-BNNプラス北海道365
オランウータン:待望の赤ちゃん誕生??円山動物園 /北海道
円山動物園(札幌市中央区)は27日、ボルネオオランウータンの赤ちゃんが生まれたと発表した。同園では21年ぶり4頭目の出産で、飼育担当の吉田淳一さん(48)は「前日に赤ちゃんを取り上げる夢を見た。ずっと待ち焦がれていたのでうれしい」と喜んでいる。
同園によると、赤ちゃんはオスで、25日昼過ぎに母レンボー(11歳)と父弟路郎(ていじろう)(13歳)の間に誕生。レンボーにとっては初の子供で、落ち着いた育児環境を提供するため、赤ちゃんがいる類人猿館の屋内展示場は当面、公開を見合わせる。
オランウータン:待望の赤ちゃん誕生??円山動物園 /北海道 - 毎日jp(毎日新聞)
ダイアナモンキー:赤ちゃん生まれる??円山動物園 /北海道
母親から乳を吸う、ダイアナモンキーの赤ちゃん(円山動物園提供) 円山動物園(札幌市中央区)にこのほど、オナガザル科の希少種、ダイアナモンキーの赤ちゃんが生まれた。すでに園内の「モンキーハウス」で公開され、乳を飲ませる親子の姿が来園者の目を和ませている
ダイアナモンキー:赤ちゃん生まれる??円山動物園 /北海道 - 毎日jp(毎日新聞)
札幌市中央区の円山動物園で、オグロプレーリードッグの出産ラッシュが続いている。オスのドンドンとメスのリンリンとの間に3月12日、8匹の赤ちゃんが誕生。別のメスのノンノンとの間には2月23日に6匹が生まれ、ドンドンはこの春だけで計14匹の父親になった。
円山はすごいベビーラッシュですね(笑)
暖かくなって北海道は今最高の季節。
動物園の赤ちゃん達も元気いっぱいです。
それにしても、やっぱり赤ちゃんは可愛い。
ぬいぐるみみたいにころころとしたオオカミやプレーリードッグ、
まるで人間の赤ちゃんのしぐさとそっくりのオランウータン・・・
まだ公開されていない子達もいますが、
可愛い赤ちゃん達を見に、円山へ行ってみませんか!!
]]>
今年のYOSAKOIソーラン祭りの期間は13日までの5日間。
YOSAKOIソーラン祭りは1992年、当時北海道大学の学生だった長谷川岳氏が中心となり、高知県のよさこい祭りと北海道のソーラン節がミックスされて生まれました。第1回は参加者10チーム1000人、観客動員数は20万人ほどでしたが19回目の今年は、ロシア・サハリン州のチームが初参加するなど国内と海外の合わせて304チームのおよそ3万人が参加し、期間中はおよそ200万人の人出が見込まれるということです。
YOSAKOIソーランの踊りの規定は2つ。
鳴子を持って踊ることと曲の中に「ソーラン節」のフレーズを入れること。
この二つさえ守られれば踊りも曲も自由なのです。
曲も衣装やメイクも振り付けもそれぞれに工夫を凝らした独創的な踊りが期間中札幌市内約25カ所の会場に分かれ繰り広げられます。
YOSAKOIソーラン祭り 公式ホームページ http://www.yosakoi-soran.jp/
でも・・・、「なまら」なんて若い女の子が使っているのを聞くとちょっと気恥ずかしいような、見たくない物を見ちゃったときのような気分。
北海道で女の子が使っているの聞いたことあったかなぁ。
実は私はこの「なまら」っていう言葉、自分では使ったことがない。
そういえば私の両親や弟も使ったことはないような気がする。
どうやら「なまら」って言葉、比較的新しい北海道弁らしく、年配の人はあまり使わない、とどこかのサイトに書いてあった。
つまり私はその「年配の人」に入るようだ(笑)
もうずいぶん昔、
小学6年生の時、親の転勤で田舎から札幌に引っ越したとき、
転校した新しい学校の級友達が「なまら」を普通に使っていて、
なんだか妙な感じ、違和感を感じたのを覚えている。
なまらしゃっこいしょ。
(とても冷たいよ。)
なまらおっかねえ。
(もの凄く怖い。)
「なまら」のルーツは新潟弁らしい。
昔、新潟から北海道に出稼ぎに来る人たちの言葉が残った、とのこと。
新潟では北海道と逆で使う人は年配の人に限られているらしい。
今年もさっぽろライラック祭りが始まりました。
(大通西4丁目から西7丁目の大通会場が5月19日から5月23日まで、白石区の川下公園が5月19日から6月6日まで)
今年は4月下旬から5月にかけて寒い日が続きさくらの開花も遅くなっていましたから、ライラックもライラック祭りに間に合わないのでは、と思っていましたが、
ようやくここ数日暖かい日が続いたことで、遅ればせながら(笑)少しづつ花をつけ始めたようです。
さっぽろライラック祭りは昭和34年に始まり今年で52回目になります。
毎年5月中旬に札幌の大通公園で開催されライラックの植樹や苗木配布、吹奏楽の野外コンサート、ライラック写生会やスタンプラリー等様々なイベントが行われています。
なかでも大通公園7丁目の噴水の広場で開かれている「ライラックフェスティバル ワインガーデン」は注目。
北海道産の色々なワインとそのワインを引き立てる料理を楽しむことが出来ます。さわやかなこの季節、太陽の下で大通公園の風を感じながら味わう北海道産ワイン。
この時期の札幌でしか味わえない最高の贅沢かもしれませんね。
遅れていた桜に梅、こぶし、レンギョウ、つつじ、それにライラック、
今、札幌は様々な花に囲まれた幸せな季節を迎えています。
ライラック祭り川下会場 川下公園
しかし彼らの文化は文字を残さなかったため、和人の記録に残った物を除くとアイヌ人の言い伝えとして残された物や遺跡などからその豊かな文化のほんの一部を推測することしかできません。
現在の北海道に繋がる歴史が始まるのは和人の北海道への移住が始まってからとなります。
道南では鎌倉時代あたりから和人が進出しアイヌ人との交易を始めていました。
和人も増え交易の規模も増えるにつれ和人とアイヌ人との間にトラブルも起きるようになり、1457年のコシャマインの戦いに始まるアイヌ対和人の抗争が1世紀にわたって続きます。
これらの戦いを平定することで道南の支配権を握ったのが蠣崎氏(後の松前氏)でした。松前氏は豊臣氏の時代に正式に蝦夷地の支配権を認められ徳川幕府になると蝦夷地で唯一の大名となります。
しかし松前氏の支配は道南を除くと漁業や交易のための海岸の拠点が中心で、蝦夷地(北海道)の広大な内陸部はほとんど未開のままでした。
幕末が近づきロシアとの接触が始まると幕府は北方警備の必要性から蝦夷地への関心を強めます。
1854年(嘉永7年)日米和親条約締結により箱館(現在の函館)開港
それに前後して札幌を初めとした北海道内陸部への和人の移住、開拓も増え始めました。
以下、北海道の歴史から手稲に関係しそうな所だけ抜き出してみました。
1852年(嘉永5)
早山清太郎(そうやませいたろう。福島県出身)が星置に入り、伐木の下請けをはじめる。
1854年(安政元)
幕府により農夫数名が篠路、発寒、琴似付近へ入る。
1857年(安政4)
札幌越新道(銭函千歳間)の開削が始まる。
山岡精次郎らが、箱館奉行の命令により、蝦夷地を調査し、農民を軽川・稲穂(下手稲村星置)の開墾にあたらせる。
発寒(はっさむ。ハチャムペッ=椋鳥(むくどり。方言では桜鳥)の住む川)に大竹慎十郎が入植。永田休蔵、山岡精次郎らも農民と共に遅れて入植。
星置(ほしおき。ホシポキ=崖の下またはウシオキ=滝が並んでいる)に中川金之助、中島彦左衛門らが入植。
1858年(安政5年)
松浦武四郎が札幌越道路を調べにくる途中、星置を通る。
1868年(明治元年)
明治維新
1869年(明治2年)
蝦夷地を北海道と改められ開拓使がおかれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治維新後、明治2年5月箱館戦争(五稜郭の戦い)も終結し7月に開拓使がスタート。
ここから本格的な北海道開拓の歴史が始まることとなります。
]]>
円山動物園は札幌の中心部から市営地下鉄、JRバスなどを利用して30分程度の距離にあります。
■ 新千歳空港から
バス:新千歳空港→円山バスターミナル 空港連絡バス(北都交通)
8時-19時の時間帯で毎時1、2便運行(AM毎時1便・13時より毎時2便(19時のみ1便)
空港乗場 ANA23番乗場発→2分後JAL15番乗場発→円山バスターミナル
料 金 ¥1000円 所要時間 75分
※円山ターミナル発は空港行きは5時から16時、円山ターミナル発最終便は16:00
JR:新千歳空港駅→札幌駅 快速エアポート
空港乗場 地下新千歳空港駅 15分間隔で毎時4本
1本は札幌止まり(時間帯により手稲まで)
2本は札幌から小樽まで快速として運転
1本は札幌から旭川まで特急として運転(エアポート→特急カムイ)
料 金 ¥1040円(Uシートは別途300円)
所要時間 36分
※札幌駅発→千歳空港駅行き快速エアポートも毎時4本運転
札幌駅→円山動物園 タクシー:所要時間約16分 料 金1450円 距 離 4.68km
■ JR札幌駅から
地下鉄で円山公園まで行く
地下鉄さっぽろ駅より南北線真駒内行き乗車、「大通駅」で乗り換え、東西線宮の沢行きに乗車、「円山公園駅」下車
■ 地下鉄東西線「円山公園駅」から
徒歩
地下鉄円山公園駅3番出口より徒歩15分
■バス
<ジェイ・アール北海道バス>
1 地下鉄円山公園駅バスターミナルから動物園線に乗車、動物園前下車(動物園西門そば)
2 地下鉄円山公園駅バスターミナルから荒井山線に乗車、総合グラウンド前下車(徒歩5分)
(所要時間8分)
<期間運行バス>
・ 動物園線(ジェイ・アール北海道バス)
札幌駅バスターミナル6番のり場、又は地下鉄円山公園駅バスターミナル5番のり場から乗車、動物園正門前下車
運行期間 4月29日から11月7日までの土日祝日、及び夏休み7月24日から8月31日まで毎日
(所要時間 札幌駅から25分、円山公園駅から5分)
・ ぶらりサッポロ観光バス(ジェイ・アール北海道バス)
札幌駅バスターミナル6番のり場、又は地下鉄円山公園駅バスターミナル5番のり場から乗車、動物園正門前下車
運行期間 4月29日から11月7日までの毎日
(所要時間 札幌駅から35分、円山公園駅から8分)
○円山動物園きっぷ(ジェイ・アール北海道)
往復JR(出発駅?札幌駅)、往復バス(札幌駅?円山動物園)、円山動物園入園券がセットになったきっぷです。小学生のお子さまには、円山動物園アクセスきっぷがお得です。
料金は出発駅によって異なります。ご利用特典として、円山動物園オフィシャルショップで1,000円(税込)以上お買い上げのお客さまにはご利用特典として200円割引、缶バッジのプレゼントがあります。
バスでのご利用に関する詳細情報
JHB:ジェイ・アール北海道バス http://www.jrhokkaidobus.com/index.html
■ タクシー
札幌市の主要な場所から円山動物園正門前までタクシーをご利用される場合の距離・料金・時間の目安です。あくまで目安ですのでご注意ください。
・地下鉄円山公園駅から 1.12km 650円 約5分
・さっぽろ駅南口から 4.68km 1450円 約16分
・大通4丁目から 4.03km 1290円 約15分
・すすきの(交番付近)から 4.1km 1370円 約15分
■ 駐車場料金(円山公園第1駐車場及び第2駐車場は、円山動物園専用の駐車場ではありません。円山公園駐車場として、円山公園や円山競技場等との共用駐車場となっています。ゴールデンウィークや、円山球場での高校野球等の試合の開催日等は混みあいますので、公共交通機関などのご利用をおすすめします。)
時間制ではありません。1台1回の料金です。大型車、中型車、二輪車は西門側の第1駐車場をご利用ください。
大型車(バス、大型特殊自動車を含む) \1,200
中型車(マイクロバス) \1,000
普通車(軽四輪車、小型特殊自動車を含む) \700
二輪車(自動二輪車) \100
●駐車台数 第1駐車場(西門側)683台、第2駐車場(正門側)150台
※障がい者用駐車スペースは第1駐車場。
駐車場利用時間
2月1日から10月31日 9時から17時30分まで
11月1日から1月31日 9時から16時30分まで
定休日(12月29日・30日・31日)
第二駐車場は冬期間(11月1日から4月20日まで)閉鎖します。
全道で2番目の乗降客数を誇るJR手稲駅の南口から手稲山山麓沿いまでの一帯が手稲本町。(JRの線路の西側。線路の反対側が前田。)
ちょうど中間を国道5号線が走っています。
札幌市と合併する前の手稲町の中心地で、明治14年に軽川駅(手稲駅の旧名)が出来て以来、近隣の農産物などの集積地、札幌と小樽の中継地など交通の要所として栄えました。
しかし、駅の北口に区役所ができ、北口から広がる前田地区に大型店舗が増えたことで近年は少し地味な印象。
古くから出来上がった街だけに道路の広さや駐車スペースの問題など車社会の現代にどう適応していくか課題もあるように思われます。
伝統ある街の良さを生かしながら、新しい時代に適応していく、難しいチャレンジでしょうがぜひ乗り切って欲しい物、と思います。
]]>