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手稲の歴史

手稲の歴史 江戸時代まで

前の記事(手稲の歴史 先史時代 )で、
手稲という地名の由来や手稲遺跡の事など書きましたように、
北海道にはアイヌ人やアイヌ人以前にいた先住民の長い歴史があります。

しかし彼らの文化は文字を残さなかったため、和人の記録に残った物を除くとアイヌ人の言い伝えとして残された物や遺跡などからその豊かな文化のほんの一部を推測することしかできません。

現在の北海道に繋がる歴史が始まるのは和人の北海道への移住が始まってからとなります。
道南では鎌倉時代あたりから和人が進出しアイヌ人との交易を始めていました。
和人も増え交易の規模も増えるにつれ和人とアイヌ人との間にトラブルも起きるようになり、1457年のコシャマインの戦いに始まるアイヌ対和人の抗争が1世紀にわたって続きます。
これらの戦いを平定することで道南の支配権を握ったのが蠣崎氏(後の松前氏)でした。松前氏は豊臣氏の時代に正式に蝦夷地の支配権を認められ徳川幕府になると蝦夷地で唯一の大名となります。

しかし松前氏の支配は道南を除くと漁業や交易のための海岸の拠点が中心で、蝦夷地(北海道)の広大な内陸部はほとんど未開のままでした。

幕末が近づきロシアとの接触が始まると幕府は北方警備の必要性から蝦夷地への関心を強めます。
1854年(嘉永7年)日米和親条約締結により箱館(現在の函館)開港

それに前後して札幌を初めとした北海道内陸部への和人の移住、開拓も増え始めました。

 

以下、北海道の歴史から手稲に関係しそうな所だけ抜き出してみました。

1852年(嘉永5)
早山清太郎(そうやませいたろう。福島県出身)が星置に入り、伐木の下請けをはじめる。

1854年(安政元)
幕府により農夫数名が篠路、発寒、琴似付近へ入る。

1857年(安政4)
札幌越新道(銭函千歳間)の開削が始まる。

山岡精次郎らが、箱館奉行の命令により、蝦夷地を調査し、農民を軽川・稲穂(下手稲村星置)の開墾にあたらせる。

発寒(はっさむ。ハチャムペッ=椋鳥(むくどり。方言では桜鳥)の住む川)に大竹慎十郎が入植。永田休蔵、山岡精次郎らも農民と共に遅れて入植。

星置(ほしおき。ホシポキ=崖の下またはウシオキ=滝が並んでいる)に中川金之助、中島彦左衛門らが入植。

1858年(安政5年)
松浦武四郎が札幌越道路を調べにくる途中、星置を通る。

1868年(明治元年)
明治維新

1869年(明治2年)
蝦夷地を北海道と改められ開拓使がおかれた。

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明治維新後、明治2年5月箱館戦争(五稜郭の戦い)も終結し7月に開拓使がスタート。
ここから本格的な北海道開拓の歴史が始まることとなります。

 

 

手稲の歴史 先史時代

手稲という地名はアイヌ語の「テイネィ/teyne-i」(濡れている・もの)に由来し、現在の手稲区市街地の広がる山麓が開拓される前にあった低湿地帯を指すといわれています。
 明治45年、手稲区内を流れる新川の川辺で土器のかけらが発見され、その後昭和に入ってからもさらに完全な形の土器が見つかり昭和29年、本格的な発掘調査が行われました。その発掘調査の結果、3000年以上も昔に先住民族がこの地に生活していたことがわかり、この遺跡は「手稲遺跡」と名付けられました。

その後、現在の手稲区前田で、手稲遺跡よりさらに500年ほど早い、4000年ほど前の縄文中期の遺跡も発掘されました。ここからは、縄文中期より約1000年間にわたって、古代人がこのあたりにたて穴式住居を作って生活していたことがわかっています。

そこには住居の中央に炉を設け、にたきもできるしくみになっていたことや死んだ人をそのままうめた墓などもいくつか見つかっているのだそうです。