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北海道 ラーメン発祥のお話 その3 ハオラー(好了)!

「なんとかしないとねぇ。」

中国人の留学生たちや最近は店の評判を聞きつけて来てくれるようになった日本人の客で賑わう店を見ながら大久タツは思いました。
「せっかくここまで来たんだから、このままじゃいけない。でもどうしたらいいんだろう。」
厨房から料理人王のよく通る声が響きました。

「ハオラー(好了)!」


北9条西4丁目、北海道大学の正門前の一角にその店が「支那料理 竹家食堂」の看板を上げたのは大正11年の4月のことでした。


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竹家の店主、大久昌治とタツの夫婦はその前年大正10年の4月にそれまでやっていた小樽のお焼き屋(北海道ではいわゆる「今川焼き」を「お焼き」と呼びます。)を売り、この北大正門前に写真館を開きました。
「大学なら毎年新入生も卒業生も出るだろう。写真の需要はあるはず。」
写真技師を雇い、新しい機材を入れて始めたその商売は、しかし見事に失敗、でした。
秋にはもう写真館の看板を下ろさざるを得ないことになり、悩んだ二人は、12月には店を「竹家食堂」と変え店内ではタツがカレーライスや親子丼を作り、店先では昌治が「お焼き」を焼くようになりました。
北大の近くには「お焼き」はありませんでしたのでこれは思ったよりはよく売れました。しかし、このままでは先はしれています。もっと可能性のある商売は?

そんな頃タツはここに中国からの留学生が多いことを知りました。
そして、店の常連になった留学生たちと話しているうちに彼らの一番大きな悩みも知ったのです。

それは、食べ物。
「私たちは毎日日本の食事ばかりでは力が出ません。故郷の料理が食べたい・・・。」

 

「支那料理の店、なんてどうかしらね?留学生の人たちもたくさんいるし、寒い北海道には脂っこい支那料理合うんじゃないかねぇ。」
「支那料理か・・・。それはいい考えかもしらんな。でもそうなると料理人を雇わなきゃならん。作れる料理人はいるかな?」
「そうだねぇ。」


王文彩が日本人の船員に連れられて竹家食堂に現れたのはそれからしばらくした頃でした。王は大柄で目が大きく風格のある中国人でした。
「この人はシベリアで支那料理の店をやっていたんですが、尼港事件に遭って樺太経由で北海道まで逃げてきたんだそうです。日本語はまだしゃべれないんですが料理の腕は確かです。こちらで使ってやってもらえんでしょうか。」
昌治とタツは顔を見合わせました。まるで神様が幸運を運んできてくれたように思えたのでした。

二人は早速(中国人留学生に通訳を頼み)王文彩の意見を聞きながら店を中華料理店に改装し北大の春休みが終わった頃「支那料理 竹家食堂」は開店しました。北海道では初めての本格的中華料理店の誕生です。

王文彩の料理の腕は本物でした。それは食通と呼ばれる人たちや本場の味を知っている北大の教授をうならせるほどの物でした。
毎日数十名の中国人留学生たちの賄いも引き受け、北大からの出前や宴会の依頼などもあり竹家食堂は順調に滑り出しました。評判が上がってくるとそれを聞きつけた日本人のお客も増え店はますます賑わって来ています。

しかしお客が増えるにつれタツには悩みができました。

王文彩は麺作りの技術も持っていました。
麺の生地を引き延ばして折りたたみさらに引き延ばして、
2本が4本、4本が8本、と言った具合に繰り返し、一本が2ミリくらいの太さになるまで伸ばしていくと言う製法でした。大きな王の腕の間で麺がまるで生き物のように震えながら次第に細くなり数が増えていく様子は魔法のようだったと言います。
この麺を使った料理で人気になったのが「肉絲麺(ロースーメン)」でした。
「これはどんな料理?」
「肉を糸のように刻んで油で揚げたのを入れた麺なんですが・・・」
「あっ、支那の蕎麦か。それ一つ。」
人気は出ても「肉絲麺(ロースーメン)」とと言う名前が日本人には発音しづらかったのかその名前で注文してくれる人はいませんでした。
「支那の蕎麦」「支那蕎麦」・・・

言葉の持つニュアンスは時代の空気によって変化します。元々中国や中国の人を表す言葉だった「支那」「支那人」も日清・日露戦争を経て日本が大陸へ進出していく頃には中国人を見下すようなニュアンスに変わりつつありました。
しかし大学関係者がほとんどの客だった頃はそれもあまり気にはなりませんでした。それが普通の日本人の客が増えてくると・・・
「チャンコロの蕎麦くれ。」
「こっちもチャンそばひとつ。」
チャンコロは完全に中国人を侮蔑した言葉です。
中には店に中国人留学生がいることを知りながら、
「この辺にはやたらチャンコロが多いな。」などと聞こえよがしに言う客もいます。

そんな時、タツは中国人留学生と目を合わせるのが辛いような気がしました。
「あんなに真面目で一生懸命な人たちに嫌な思いをさせるのは辛いねぇ。それにこの店がうまく行き始めたのもあの人たちが力を貸してくれたからなんだしね。チャンそば、なんて言われなくて済むようにしなければ。」

昌治も思いは同じでした。二人は色々と考えながらメニューや店内の表記を変えてみたりもしていました。
この少し前には「肉絲麺(ロースーメン)」を「柳麺(リュウメン)」としてみました。
「これの方が読みやすいし発音もしやすいだろう。」
しかし、効果は全くありませんでした。

どうしたらいいもんか、ねぇ。

そんな思いにふけっていたタツは王の大きな声で我に返りました。

「ハオラー(好了)!」

料理ができたよ、と言う意味です。料理中の厨房に他の人間が入るのを嫌う王は注文を受けた料理が出来上がるたびに大きな声でハオラー!と叫びました。店が賑わうごとにそんな王の声が店に響く回数は増えています。
「王さんったら、またあんな大きな声で。」
タツは微笑みながら思いました。
「いつもいつも、ラー、ラーって。」
その時、タツの頭に閃く物がありました。


「ねえ、ラーメンって言うのはどうかな。」
「ラー、メン・・・か?」
「うん。私店にずっといると、王さんのラー、ラーって声が耳に残っちゃって・・・」
タツは笑いながら言いました。
「ラーメン、なら言いやすいし、でも日本語にはないでしょう?」
「そうだな、ラーメンか。語呂はいいし支那料理に合っているかな。でもどう書く?柳麺の時みたいに読んで貰えなければ意味はないぞ。」
「だから、カタカナで大きく、ラーメンって書いたら?」

タツの閃きは、あたり、でした。
最初のうちこそ、「ラーメンって何だい?」と質問する人が多かったのですが、そのうち「チャンそば」はもちろん、「支那の蕎麦」「支那蕎麦」と注文する人もいなくなりました。そしてもっと驚いたことは「ラーメン」とメニューに書いてから、麺類の売り上げがうなぎ登りに上がったことでした。ラーメンと言う言葉が札幌にしっかり根付いたのです。
その頃札幌は喫茶店の街とも呼ばれ市内には10数店の喫茶店があったそうです。竹家のメニューに「ラーメン」が登場して数年のうちにそれらの喫茶店や市内の食堂のメニューに「ラーメン」が入るようになりました。その頃、喫茶店や食堂のラーメンの値段は一杯15銭だったそうです。竹家食堂のラーメンは一杯20銭でした。しかしラーメンの元祖としての竹家食堂の評判は高く値段の差も関係なくお客が減ることはありませんでした。

王文彩は大正13年に惜しまれながら竹家食堂を去りました。
その後は李彩、李宏業が後を継ぎ竹家食堂を発展させていきました。

大正14年には支店「芳蘭」開店
昭和3年、「旭川芳蘭」開店

旭川でも、ラーメンは人気メニューとなりました。
すでに札幌では知らない人がいないほどになっていた「ラーメン」は旭川でも少しづつ認知されるようになっていったのです。

昭和8年、本店、竹家食堂新装開店。

竹家食堂は繁栄を続けていました。
その未来は永遠に明るいようにさえ見えました。

しかし昭和15年12月、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入。
戦局の悪化につれ物資も不足してきます。
麺を打つ小麦さえ質の良い物は手に入らなくなりました。

そしてついに昭和18年、物資統制令により、竹家食堂廃業。

北海道のラーメンの歴史のプレリュードはここに終わりました。

(事実関係、時代背景などは大久 昌巳 、 杉野 邦彦 (著) 「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」および札幌市-北区役所ホームページ|北区‐第10章:その他[札幌の味、そのふる里をたずねて]を参考にさせていただきました。会話などは管理人の想像による創作、です。)


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